家づくりの体験に、五感の記憶を残せているか
工務店の集客や営業の話をしていると、「顧客体験」という言葉を耳にすることが増えました。家という商品そのものだけでなく、家を建てるまでの体験全体が、お客様の満足や、その後の紹介を左右する。そうした考え方は、すっかり定着してきたように思います。
ただ私は、この「体験」という言葉が、少し抽象的に使われすぎているのではないかと感じています。体験を良くしようと言いながら、実際に変えているのは打ち合わせの資料のデザインや、ノベルティの中身だけ、ということも少なくありません。私は、家づくりの体験を考えるなら、まずお客様の五感にどんな記憶が残っているのかを、具体的に思い浮かべてみるべきだと考えています。

契約書より、木の香りの方が覚えられていた
前職の住宅メーカーで営業をしていた頃、引き渡しから何年も経ったお客様とお会いすると、よく聞かれた言葉があります。「上棟の日に、木の香りがすごかったのを覚えています」。
打ち合わせで何度も説明した性能のことや、契約の内容について話してくださる方は、実はそれほど多くありませんでした。それよりも、組み上がったばかりの骨組みの中に立ったときの木の香り、職人さんがかけてくれた声、子どもが現場で拾った木っ端。そうした五感の記憶の方が、ずっと鮮明に残っていたのです。
当時の私は、営業の仕事は契約までだと考えていたところがありました。上棟や引き渡しの場には顔を出しても、それがお客様にとってどれほど大切な体験なのかを、深く考えたことはありませんでした。お客様の記憶に残っているのは、私が力を入れて準備した説明の場面ではなく、私がほとんど関わっていなかった現場の時間だったのです。
あるお客様は、引き渡しから十年が経った今でも、上棟の日に大工さんからもらった木っ端を、子ども部屋の棚に飾っているとおっしゃっていました。小さな木のかけらが、家族にとっては家づくりの思い出そのものになっていたのです。その話を聞いて、家づくりの体験は、会社が用意した演出ではなく、現場の何気ない瞬間の中にこそあるのだと感じました。
体験を分けて考えると、手の届く工夫が見えてくる
ある工務店向け業務支援会社のコラムでは、顧客体験の価値を、五感に訴える価値、感情に訴える価値、知的な好奇心に訴える価値、体を動かす体験の価値、人とのつながりの価値、という五つに分けて紹介していました。マーケティングの分野でよく知られた考え方です。
この五つの分け方は、工務店の家づくりにそのまま当てはめることができると思います。木の香りや無垢の床の手触りは、五感の価値です。上棟の日の高揚感や、引き渡しの日の感動は、感情の価値。性能や構造の仕組みを理解する面白さは、知的な価値。子どもと一緒に壁に手形を残したり、植樹をしたりする体験は、体を動かす価値。そして、職人さんや担当者との関係は、人とのつながりの価値です。
こうして分けてみると、自社の家づくりの中で、どの価値が十分に届けられていて、どの価値が手薄になっているのかが見えてきます。打ち合わせの資料を整えることは、主に知的な価値の部分です。けれど、お客様の記憶に長く残るのは、むしろ五感や感情、人とのつながりの方なのかもしれません。
もちろん、体験を演出しすぎるのも考えものだと思います。わざとらしいイベントや、形だけのセレモニーは、かえってお客様を冷めさせてしまいます。大切なのは、家づくりの過程にもともとある体験を、お客様にきちんと届けることです。上棟の日に、骨組みの中をゆっくり歩いてもらう時間をつくる。職人さんに、その日の作業を一言説明してもらう。それだけで、お客様の記憶に残るものは大きく変わるはずです。
職人さんにとっても、お客様の喜ぶ顔を間近で見られることは、仕事への誇りにつながります。体験づくりは、お客様のためだけでなく、現場で働く人のためでもあるのだと思います。

あなたのお客様は、何を覚えていてくれるでしょうか
あなたの会社で家を建てたお客様は、十年後、家づくりのどんな場面を覚えていてくれるでしょうか。
一度、OB客の方に尋ねてみてほしいと思います。「家づくりの中で、一番印象に残っていることは何ですか」と。返ってくる答えの多くは、会社が力を入れていたつもりの場面とは、少し違っているかもしれません。その違いの中に、これから磨くべき体験のヒントが隠れています。
家は、完成した後の暮らしのためのものです。けれど、家を建てるまでの数か月もまた、お客様の人生の大切な一部です。その時間に、五感の記憶をどれだけ残せるか。そこに、地域の工務店ならではの家づくりの価値があるのだと私は思っています。
打ち合わせの合間に、完成した家の木の床を素足で歩いてもらう。そんな小さな工夫一つでも、お客様の記憶は確かに変わっていきます。
あのお客様が覚えていた木の香りのように、何年経っても思い出してもらえる体験を。そんな家づくりを、一棟一棟、積み重ねていけたらと願っています。
